コロナ禍での子どもの外遊び

コロナ禍での子どもの外遊び

都市生活者にとっての『コロナ禍での子どもの外遊び』

日常生活に『自粛』が持ち込まれて1年以上が経ちますが未だ出口が見えてきません。この間「新型コロナウィルスがどのように振る舞うのか?」「私たちが取るべき行動は?」のような事は沢山議論され、報道されていて、今やマスクをせずに公共の場にいる人はゼロに近く、テレワーク導入などもあって、多くの人の働き方や、暮らし方が変化したと思います。

ところが子どもたちのこと、彼らの外遊びとなると、そうした議論や報道は極端に少ない。どうしたって「働く人中心」の世の中ですから、致し方ない部分があるにせよ、何も考えずに子どもの遊びを自粛させてしまってよいのか。新しい生活様式の中にその機会をつくっていけないものか。

3度目の緊急事態宣言下で考えてみたいと思います。

 

外遊びの価値
ここでいう外遊びとは、公園の遊具だったり、グラウンドでのボール遊びよりもう少し枠を広げ、より生の自然に近い環境で遊ぶことを指しています。そしてこの外遊びの効能のようなものについては世界中で研究され、肯定的なものばかりです。身体面だけでなく、コミュニケーション能力や、物事・感情の変化に気づく力、自主性、積極性、好奇心、問題解決能力といった面でもよい影響があるといわれています。

どの程度か分からないし、個人差もあるでしょうが、外遊びは推奨されこそすれ、否定はされないと思います。

またそうした研究の結果とは関係なく、多くの親御さんがお子さんの小さいうちに自然に触れさせようとしてきたか、今そうしているのではないでしょうか。不思議なことにほとんどの人が、自身が子どもの頃に自然と接した時間の長さに関わらず『子どもは自然に触れて遊んだ方がよい』という感覚的な価値観を持っているように感じます。

それは室内で行う学校の勉強や文化的活動から得られるものとは違った刺激が自然の中にあり、なるべく幼いうちにそれにたくさん触れた方がよい影響がある・・・というような考え方というか。誰から教わったわけでもなく、自らも子どもの頃にそこから何かを得たという経験によって気づかないうちにつくられた潜在的な意識のようなものだと思います。

こうした点から考えて、外遊びの効能とか価値みたいなものを改めて論ずる必要はないんじゃないかなって。素直にその意識と価値観に従って行動すればよいのでしょう。

 

子どもにとっての『遊び』とは
僕ら大人のそれとは違う側面が多分にあります。大人は自らそれを選択し、自分の意志で行っていることを『遊び』と呼ぶでしょう。

でも子どもにとって『遊び』とは『学び』であり、興味や好奇心がかきたてられればいつでもどこでもそれが始まる。またその学びは書物から得られる『知識』とは異なり、五感を使って得る情報であることが多く、人間は生まれてすぐにそうした情報を獲得してゆくことで、その後の行動の、延いては人生の糧にしてゆくのだと思います。

火は熱く、太陽は眩しい。草花には匂いがあり、虫には生命が宿り、川の水は冷たく、転べば痛い。この僕ら大人にとっては当然のことを『遊び』を通じて学びます。見方を変えれば、僕らも子どもの頃にそうした体験を通してこの『当然』を学んだのです。

そしてもっともっと多くのことを子どもは遊びから学んでいます。

人間の脳は無意識に体のいろんな部分を動かしています。心臓の動かし方を経験から学んだ人はいないでしょう。それは意識とは別に動くものであり、例えば歩く際に『大腿直筋と、外側広筋をまず動かして、次に大腿四頭筋、腸腰筋を動かす』と筋肉に命じている人はいません。歩きたいと思えばそれらの筋肉が連動して動きます。人間がいかに幼いころから体験でいろんなものを学び、それらが無意識に脳に蓄積されているか。たとえばそれは脳梗塞の症状から知ることができます。

脳梗塞は脳の血管が詰まって血流が途絶え、脳の細胞が死んでしまう病気です。どの場所に起きるかによって現れる機能障害は異なりますが、脳の左側に障害がおきると体の右側が、脳の右側だと体の左側に麻痺などの障害が現れます。

片側が麻痺することで歩けなくなるなど障害が残った人がリハビリによってまた歩けるようになるケースを何度か目にしてきましたが、そのやり方は『歩くために筋肉をどう動かせばよいのか脳に学び直しさせる』というアプローチでした。そしてそれは『ある動作をしたら少し休んでまたその動作を繰り返す』という反復から学ぶといったものでした。

高齢の方でもこうしたリハビリで運動機能を回復しました。ある部分の脳の細胞が死んでも、そのほかの部分が同じ機能を果たそうと補完するそうです。身体的機能が衰えていく年齢であっても脳は補完機能を持っていますから、これが子どもで、急速に成長する時期にはちょっとした刺激や現象からものすごく多くの情報を得て蓄積していると推測できます。

そしてそうした『外界の情報で脳を刺激する』という点においては、活字よりも体験。それも五感を刺激する要素が沢山ある自然がより望ましい。自然の中には、光るものや匂いを放つもの。熱い冷たいや、触ると痛いもの。動くもの、音を発するなどの五感を刺激するもが自分の近くにも、遠くにも、そこらじゅうに溢れています。

そうした刺激に富む環境の中で、体を動かすこと。平らではない地面でバランスを取りながら歩けば脳は同時に沢山の情報を処理しながら情報を蓄積します。お友だちと一緒に遊ぶとなれば、自分のものを取られたくないとか、貸してもらえないとかでケンカになり、泣いて、笑うことで感情の表出がそこに加わります。

河原の滑りやすい石の上を転ばないように飛び回り、冷たい水を掛け合ってはしゃぎ、楽しかったり、ケンカしたりする子どもの何気ない遊びの中に、それはもう信じられないぐらいの学びが詰まっている。それが『子どもの遊び』ではないかなと思うのです。

 

子どもをとりまく環境の変化
人間の歴史を遡ぼれば遡るほど自然にふれる機会は多かったはずです。石器時代は自然体験しかなかったでしょうから!いや、待てよ。当時の人たちからしたら、石の道具を作るなんてすごく文明的で都会的な行動だったのかも?そんなこと言ったらキリがないか。

僕が若者だった時代にも自然環境が減ったということは言われていました。自然破壊とか環境問題、乱開発といったような文字がメディアに今よりもっと並んでいた時代だったと思います。

では実際どの程度減ったかといえば、おそらくですが、子どもたちが自然体験できなくなるほど自然が減ったわけではなく『遊んでいいよ』とされていた場所、もしくはなんとなく容認されていた『グレーゾーン』のような場所が減ったのだと思います。

それには、これまでは遊んで怪我をしても当たり前のように怪我をした本人が悪いとされていたのが、場所の所有者や管理者に管理責任を求めるようになった事が大きく影響したんじゃないかなと考えます。

戦後、皆が生きるために必死で、どこか気楽にやらなければとてもやっていられなかった時代から、だんだんと経済的且つ時間的な余裕がある時代に移行し、生きるために現実論しか通用しなかった時代から、あるべき論で未来を変えていこうとする時代というか、言い方を変えれば『本来的な自己責任(生まれて死んでゆくまで自分の生には自分が責任を負うといった)』があたりまえだった時代から、税金を支払っている国民に国や行政が安心安全を約束するのが当たり前といった時代への移行が、必要以上に責任を追及するような流れを後押ししたのではないかと思います。

結果、子どもたちの遊びという点においては、何か問題がおきると土地の所有者、管理者、保護者の責任が問われ、そうして身近にグレーゾーンがなくなり、子どもたちが自分たちの意志と判断で自由に遊べる場所が少なくなった。

今から考えればその行動がどういった結果を招くか慎重に考えて対処してゆく必要があったのだろうけど、その場その場の風潮で責任追及だけをしていった結果、犠牲になったのが発言権のない子どもたちの『自由な遊び場』でした。自分たちで選択して遊び場をなくしていったという感覚はこの間を生きてきた子どもにも、大人にないんじゃないかと思います。

人間の健やかな成長には、幼少期に興味と好奇心の赴くままに遊ぶことができる『自由な遊び場』が必要だということにもっと社会の興味関心が払われない限り、この流れは続いてしまうと思います。

 

コロナ過によって増えた選択肢
こうしてただでさえ子どもたちの日常から自由な遊び場がなくなっていったのに、より生の自然に近い外遊びとなると、さらにその機会は少なくなりました。

だって都市の暮らしは快適で、草むしりに追われることも、家の中にムカデが侵入して「ギャー!」と驚くこともなく、高層マンションなら夏に蚊に刺されるイライラからも解放され、夜中でも懐中電灯なしで歩けるほどに明るく、何時でもお金があれば美味しいご飯が食べられてお酒も飲める。週末はショッピングに、映画、遊園地に美術館。図書館は空調が効いており、無料で本が読み放題。いくらでも文化的な生活が送れるのが都市のよいところです。

一度こうした生活をしてしまえば、山中で、電気もない暮らしを望んでする人は少ないと思います。まあそういう知り合いいますけども。

僕は都市での暮らしも自然の中での営みもどちらも大好きだし、どちらも欠かせないものです。どちらか一つだけとなってしまったら非常に困ってしまう。快適で、安心安全に暮らせる環境や、文化的な営み。パソコンで仕事をして、大好きなスポーツを観戦して、他愛もないスマホのゲームをしたり、鳥のさえずりを聞きながら畑しごとをして、夏は暑ければ川にいき、冬は星空のしたで焚火をしたり。

この生活をすることで得られるお金や充足感、そこから生まれる心の余裕ともいうべきものが僕には大切です。

この文章を読むだろう人たちの多くはともだちひろばの関係者で、調布か、その近くに住まう人が多いだろうと思いますが、その前提でいえば、僕らが住む多摩地域というのは、東にゆけば大都会があり、西に行けば大自然があり、少なくなったとはいえ、カニ山のある深大・佐須地域には里山の風情も残っています。

こうした点において、僕らは住環境に恵まれており、自分の行動範囲の設定の仕方や、興味関心の持ち方、自分と家族の幸せとはなにか考えることなど、すべては心のありようひとつで、自由な暮らし方が実現できる地域だと思います。交通網が発達し、その自然と都市との往来には1時間あれば事足り、コロナ禍によって働く場所を選ばない生き方ができる人が増えたため『一つの場所に囚われない自由な暮らし』の実現性は高まりました。

この時代、この地域で上手に生きる1つの方法として、都市と自然を自分の好むペースで行き来するという『いいとこどり』の生活スタイルが僕らの暮らしの選択肢に加わったんじゃないかなと思います。

 

コロナ禍の外遊び
では子どもの外遊びはどう考えればよいのか。これまでと違うのは、これまでならみんなで集まって、火を起こして、ご飯をつくったり、ともだちと遊んだりすればよかったのが、コロナの感染リスクを考慮したやり方を考えないといけなくなりました。

幸いなことに小さい子どもたちにこのウィルスはあまり悪さをしないようですから、子どもを家の外に一歩も出さない!というようなことはしなくて済むのですけれども、人が集まって、クラスターが起こってしまうと、何をするにしても社会の理解は得られないでしょうし、そもそも参加する人もいなくなってゆくと思います。

野外での活動の場合、室内活動に比べるとリスクは低いでしょう。ただそうは言っても人が集まるわけですから、なんのリスクもないわけじゃない。だからこの状況下では、各家庭単位、同居する家族の単位で自然体験の機会を増やすのがよいと思います。移動に車を使うとか、移動先でも自分たちで火を起こして食事づくりをするとか、キャンプの知識と経験を得て、野外でやれることや遊べる幅を増やし、いろんな自然体験ができるようにする・・・というか。

ともだちひろばでは、これまでのように子どもたちが野外で遊ぶ場所、普段できないことをできる機会をつくりつつも、保護者のみなさんがアウトドアの知識と経験を増やせるようなことに注力したいと思います。車がなければ借りればいいです。日常的に車を乗らない人なら借りた方がはるかに安いですから。

僕の場合を例にとると、1.5ℓで車両本体200万円の車を10年間、毎年1万kmぐらい乗って駐車場代は無料なんですけど、これで年間、保険とか車検とかガソリンとか全部込みで45~50万円ぐらいの費用がかかっています。小型車を1日半借りて8000円ぐらいですから、これで計算すると、毎週アウトドアに車を借りて出かけても保有するよりだいぶ安い。月に1回とかなら10万円もかからない。二か月に1回ならさらにその半分です。

それに道具を持っていなくても全部借りられるし、トイレもシャワーもあって、それでいて川遊びも、BBQも、テント泊もできて、万が一の場合は避難できる建物があって、調布から車で1時間ぐらいです。道具の使い方もともだちひろばのキャンプ道具を使って学びましょう。テントも、タープも、斧や、鉈、ナイフものこぎりもあります。カニ山なら火おこしも学べます。

コロナ禍のともだちひろばではこういうこともお伝えできればと思います。

 

最後に
外遊びとか、自然体験とか、子どもたちにとって望ましいのですけれど、どれだけ必要とか、頻度とかは各家庭の状況に合わせるのが最もよいと思います。

年に何回しなければならないとかハードルを設けてしまうことで、大変になり、楽しくなくなってしまうと元も子もないですし、家族で楽しい思い出をつくることも外遊びと同じくらい大切なことだと思います。

そして、お父さんやお母さんが自分のことを考えてそういう機会を用意してくれたという理解にいつかたどり着くこと。それは彼らがその先の人生を自らの力で生きてゆく大きな財産になります。

それぞれの家庭の状況や考え方に応じた、それぞれの子どもの外遊びをつくるお手伝いができれば嬉しく思います。

ぼーちゃん